eve-イヴ-のアタマの中

世界一の無駄話。料理 趣味 学問 思いつき ダイエット

時間を置くと内容が変わる本

どうも。

 

 

 

はじめに、1つご報告があります。

 

Twitterでも言いましたが、

 

 

 

 

 

 

 

本日 (2020/02/02)、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ブログ投稿12日目にして、

 

 

 

 

おかげさまで 総アクセス数 100 を突破いたしました。

 

 

 

 

皆さん、本当にありがとうございます。

 

 

 

長年続けてらっしゃる方からすれば小さな一歩に見えるかもしれませんが、僕としては非常に大きな一歩に感じます。

 

 

 

読者の皆さんのおかげで僕は投稿が続けられています(真剣に)。

 

 

 

 

特に1度ならず2度、3度と読んでいただいている方には本当に感謝しております。

 

 

 

 

 

 

今後も、皆さんに楽しんでもらえるよう日々試行錯誤しながら頑張っていこうと思います。

 

 

 

 

今後とも、イヴのアタマの中 をどうぞよろしくお願いします!!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

それでは、今日の記事にはいります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日はいつもと少しだけ雰囲気が変わる内容になると思います。

 

 

 

 

いつもは社会学から話を引っ張ってきているのですが、

 

 

今回は、 解釈学 という分野から話をしようと思います。

 

 

 

 

 

専門分野ではないので極めてピンポイントな知識でもって話をするので、

どうしても説明に不足が生じるかもしれませんがあらかじめご了承ください。

 

 

 

まず、解釈学についてなのですが、読んで字のごとく、

 

物事を解釈することに特化した学問分野であります。

 

 

 

 

もう少し柔らかく言えば、何かに対する

 

「理解」であったり、

「とらえ方」であったり、

文学や文献の「読み方」

などに関する体系的な理論を研究する分野で、哲学に内包されるもの

 

 

といった感じです。

 

 

 

その中で今回は、「読み方」についてのお話になります。

 

 

 

それではさっそくいきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まず、一つだけ用語を覚えてもらいます。

 

 

覚えてもらう用語は

 

 

「前理解(ぜんりかい)」 という用語です。

 

これは、その人がすでに持っている知識、解釈のことを指していて、常に変化し続けるものです。

 

とりあえずこれだけでも覚えていってほしいです。

 

 

それでは本編へ

 

 

 

 

 

 

 

皆さんの中には、こんな体験をした方いらっしゃるんじゃないでしょうか。

 

 

 

 

「この本、前に読んだときは全然面白くなかったのに、今読んだらすごい面白い」

 

 

 

「昔めちゃめちゃハマった本なのに、今読んでもそんなに響かないな」

 

 

 

 

この現象について、解釈学から説明します。

 

 

まず「本との出会い、読書」のことを

 

ここではひとまず 対話と呼ぶことにします。

 

 

 

対話における理解において、当事者依存というものがあります。

 

これは、

  1. 理解する者
  2. 理解されるもの(今回は本ですが人でもOK)

 

の両者が、常に変化する可能性がある、というものです。

 

 

 

 

ゆっくり順番に一つずつ見ていきましょう。

 

 

 

 

1.について

まず、理解する者が変化する可能性があるというのは、いろんな人が本を読むということではなく、

一人の人間が様々な経験を通して、その人自身の内面、すなわち、先ほど覚えていただいた「前理解」が変化していくということを指します。

 

2.について

これもまた、読む本が変わるという意味ではありません。

これは、

本自体の社会的評価や価値

ひいてはそれを読むという

行為自体の価値が変化する、ということです。

 

聖書なんかは何世紀も読まれてきたので譬えやすいですが、キリスト教が弾圧されていた時代、またはされている文化、地域で読むのと、認められている環境で読むのとでは、いろいろと違ってくるのはイメージできますよね。

 

 

 

 

 

これらを用いて、具体的な例に沿って話をすると、

 

 

”五年前に読んだ本を今読むと、とても面白かった。”

 

 

とする。

 

これは、の読んでいるその人の前理解が変化し、内容の意味のとらえ方の多様化や、読解力の向上が認められます。

に関して言えば、その本が社会的に再評価されたり、初めの高評価が維持されていると、その維持されていること自体が評価として加えられたりしている可能性がある。

 

 

という説明ができます。

 

 

また、この場合は、

 

5年前の時点での「未知の本」

 

と現在の「一度読んだ本」

 

 

という意味で、本自体の変化も考えられます。

 

 

 

 

 

 

といった感じで今回はここまでとします。

 

 

 

解釈学は僕の知る範囲だけでももっともっとたくさんあるので、

 

すこしずつこの場で共有していこうと思っています。

 

 

 

今回も読んでいただきありがとうございました。

 

また次回お会いしましょう。

 

 

それではさようなら。

 

 

 

 

<あとがき>

いかんせん哲学チックな話は文章だけじゃ伝えられない感じがあって難しい。

いろんなところにつながっていたりしてて、そもそも持っている資料をまとめるのが難しい。

 

 

あ、

 

問題です。

 

 

 

本稿で、これだけは覚えてほしいって言った用語は何だったでしょう?

 

説明できるまでできる方は最強です。

 

 

 

 

すっごい後悔した事

どうも。

 

今日は出先でPCや資料がないので短めです。

 

 

 

皆さんは成人したとき、

成人式とか

同窓会とか

 

って行きましたか?

 

 

 

僕は

 

どちらも行きませんでした。

 

 

 

理由は3つ

  • 正装がめんどくさい
  • 費用がシャレにならない
  • 特別会う友達がいない(会いたい人はすぐ会える)

 

 

 

 

 

まず、その日に着るスーツなんですが、僕は1着しか持ってない上に大学の入学式以来着てないし、そもそも春ものなのであの時期に着るには寒すぎるんですよね。

新しく買うにもすっごい高いですし、親に言えば買ってもらえるんでしょうけどそこまでの価値を感じませんでした。

 

同窓会は中学、高校とあって、両方8500円ぐらいしてたので、これまた行く気にならんのですよ。

会いたい人には卒業後も連絡して会っていますし、会わない人は二度と合わなくて差し支えないだろうと思いました。

 

 

 

 

 

 

そう思っていました。

 

 

 

 

 

 

 

しかし、

 

インスタなどを見ていると、

 

 

 

 

 

 

 

 

行けばよかったかもしれない。

 

行きたかった。

 

 

 

 

 

 

と、驚くほど強烈に思いました。

 

 

 

 

 

 

行くか悩んでる方、行かないと決めている方

 

行かないともう人に言ってしまって、変な意地を張っている方

 

 

 

 

行った方がいいと思います。

 

 

 

二度とないので。

 

 

 

後から写真を見て、

ちっとも会いたいと思わなかった人が見違えるように大人になっていて、是非会って話したいと思っても

 

 

 

その時その場面ではもう会えないんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

行ってください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

というわけで今日は、

 

 

 

 

 

成人式には行ってくれ

 

 

 

 

 

 

っていうお話でした。笑

 

すごい後悔したので…笑

 

 

 

 

今日も最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

 

今回はあとがきもありません。

次回はもう少し内容の詰まった話しますね。

 

 

 

それではさようなら。

男が奢るって決めたやつ呼んで来い

どうも。

 

日本人って、芸能人のスキャンダル大好きですよね。

日本人というよりはメディアなんですけど。

まあ飛ぶように売れるからメディアが取り上げて、結局はみんな大好きってことになるんですけども。

 

皆さんはどうですか?

僕は個人的には全く興味がなく(読んでくださってる皆さんの大半がそうだと思いますが)、むしろそっとしといてやれって思います。

 

結婚率の低下や熟年離婚など、最近家族や恋愛に関してあまり良いニュースを聞かないですね。

こんなんだからみんな嫌になっちゃうんですよね…

 

でも、現代のコミュニケーション能力や察することが求められる社会において、互いに理解し合い、良い関係を長期的に継続することって、改めて考えるとめちゃめちゃ難しいですよね。

 

(若者のコミュニケーション能力についてはこちらで少し話してます。)

eve4049.hatenablog.com

 

 

というわけで今回は、

結婚・恋愛メディア

に関して、少しお話しようと思います。

 

と言っても、今回のメディアとは媒体という意味で、マスメディアとは異なりますので誤解の無いようお願いします。

 

 

それではいきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

まず、我々が普段行っているコミュニケーションというものが、

ものすごく繊細で、

不安定で、

不確実で、

非常に高度な作業であることを皆さんに知ってもらいます。

 

 

 

 

 

皆さんは、相手のことをまるっきり理解できていると思いますか?

 

 

 

 

 

 

冷静に考えれば、答えはNOのはずです。

 

 

 

 

 

しかし、こうやって立ち止まって考えて初めて、それを自覚するということもまた事実です。

 

 

 

なぜなら、日々のそれとない会話の中で、「今の彼の興奮具合はこれぐらいだと思うけど、これは私の主観で決めていることで実際はそうとも限らないから…」みたいなことをいちいち考えないですよね。

 

 

 

 

大体の感情の動きや意図は、それまでの会話や自分の知っている範囲での相手の情報と照らし合わせて予測します。

 

 

 

 

この作業を互いに行い、不確定性を無視することで円滑にコミュニケーションを進めていきます。

 

 

 

 

これを

ダブル・コンティンジェンシー(二重の偶然)

と呼びます。

 

 

 

要は、互いに完全に理解しないまま進行している状態です。

 

 

 

 

 

 

この状態を解消するための道具として用いられるのが、メディア(媒体)

になります。

 

 

 

 

これだけの説明だとよくわからないと思います。

 

 

 

僕も「これは、どうしよう。」と思いながら書いています。笑

 

 

 

 

例えば。

 

 

経済の話をするためにはお金がメディアになります。

お金という共通の概念がなければ、経済について話をすることができません。

 

 

 

 

 

法廷では、法律というメディアが必要になります。

法律という共通のルールがなければ、人を裁くことはできません。

 

 

 

 

 

 

宗教においてはどうでしょう。

無論、宗教では神や経典が共通認識のメディアとなります。

 

 

 

 

どうでしょう。

少しイメージしやすくなったでしょうか。

 

 

 

 

 

 

このように、共通のルール・規範・概念が存在することで、二者間のコミュニケーションに一貫性が生まれます。

 

 

 

その場での、とりあえずの正義、正解のような感じです。

 

 

 

 

 

もちろん、二者間でメディアそのものに対する認識の違いがあることもありますが、同じ文化や社会集団であればあるほど、差異は小さくなります。

 

 

 

逆に言えば、カルチャーショックなんかはこの辺からでも説明できますね。

 

 

 

 

 

 

それはさておき、

 

 

 

 

簡単に言えば、コミュニケーションにおいて、

二人の間に一つ軸を置いてあげれば、互いの理解の助けになる、ということです。

 

 

 

 

 

では、それが結婚・恋愛にどう関係があるのか。

 

 

 

 

察しの良い方、その通りです。

 

 

 

 

 

 

ここまでの話の流れでいくと、

 

恋愛とは、結婚について話すためのメディアである

 

ということがいえます。

 

 

 

 

 

そしてこの認識が当たり前になったのは、つい最近の話なのです。

 

 

 

 

一昔前(封建時代)までは、結婚のメディアは身分でした。

同じ身分の人と結婚するのが当たり前で、身分を越える結婚はご法度でした。

 

 

 

しかし現代ではご存じの通り、

結婚といえば恋愛結婚が専ら主流になっています。

 

 

 

 

では、コミュニケーションのメディアとしての恋愛が、二者間の理解をどのように助けるのかについて、なのですが、

 

 

例えば、

 

 

 

”もし恋愛が存在しなかったら” と仮定して考えてみて下さい。

 

 

 

 

 

 

 

恋愛というメディア抜きに結婚について男女で話を進めることができるでしょうか。

 

 

 

 

たぶん、少なくとも現代社会においては、できないです。

 

 

 

 

 

 

詳しく説明すると、

互いに好意を持っているという状態である=恋愛

という共通認識があるおかげで、それを踏まえた話ができるわけです。

 

 

さらに、あらゆるメディア(この場合は本やドラマや、恋愛についての情報の媒体)を通して、理想の恋愛とはどのようなものかを共有し洗練することで、「どうすればいいかわからない」という状態から、「こうすればきっと喜んでもらえる」という展望も見えるようになります。

 

 

 

 

 

 

良くあるじゃないですか。

「ふつー男が奢るもんじゃん」とか「おそろいのネックレス嬉しい!」みたいな。

 

 

 

 

これらは「恋愛」という、いわばルールというか、理想というか、メディアによるものだということができるんです。

 

 

 

 

 

 

そして最終的に、この恋愛というメディアを通して何度も何度も塗り重ねられたコミュニケーションのゴールでありスタートであるのが結婚となるわけです。

 

 

 

 

よく、「何十億いる中で君に出会えた軌跡」みたいな歌詞ありますよね。

 

 

あれは、偶然(選択可能性)から必然(唯一無二性)への転換を急いでるんです。

 

 

 

 

 

上で述べたように、何度も塗り重ねるという工程によってはじめて、互いのことが特別な存在へと昇華します。

 

 

つまり、出会った時点では運命ではなく偶然です。

出会う時点では誰でもいいんです。

 

 

 

 

 

これは恋愛に限ったことではなくすべてに通じることですが、

人でもモノでも、出会ってからが本番で、塗り重ねに失敗したり、急いでしまうと、破綻することになります。

 

 

 

 

 

 

皆さんは家族選んで生まれてきたわけじゃないのに、家族はほかの一般人とは違う特別な存在でしょう。

 

好きとか嫌いとかは別として。

 

 

 

 

 

 

といった感じで今回はこれで終了とします。

 

 

 

 

今回は恋愛についてコミュニケーションのメディアとして紹介しましたが、

またの機会に、

”一つのコミュニケーションとしての恋愛”

についても話そうと思っています。

 

恋愛自体がコミュニケーションの目的になっている、みたいな話です。

 

 

 

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

また次回。

 

それではさようなら。

 

 

 

 

<あとがき>

正直、恋愛を社会学やその他学問で論じようとしても無駄だと思う。

この場合の無駄とは、研究自体を否定してるんじゃなくて、実生活にあまり使えないという意味で無駄だということ。

話自体は面白いと思うけど、そんな簡単なもんじゃないよねぇ。

 

 

 

(ついに3000字超えました。)

心を売る仕事

どうも。

 

今日は昼からバイトでした。

バイトはTwitterにも記載している通り、コックさんです。

 

コックさんと言っても去年の10月に始めたばかりの超下っ端で、土日などの忙しい時間帯は一人で回せるには至っていません。

コンロ8つもフル稼働でどんどんこなしていく先輩方のアタマの中を見てみたいです。

 

ちなみに前職は塾講師でした。

今思えば、当時は「ブラックだ―」とか言いながらやっていましたが、大手の塾だったこともあり、非常に待遇が良かったと思います。

通常授業に加え、長期休みなどは200コマ近く授業をしていたので、退職した後も有給消費で2か月ぐらい何もせずにお金が入ってきてました。

 

今のバイトに変わってから、お金を稼ぐしんどさがやっとわかった気がします。

これまでは、まあ確かにあれはあれでしんどかったですが、自分の知識をカリキュラムに沿って伝えていくだけなので、身体的なストレスはあまりなかったですね。

 

 

 

 

さて、今日の話はお仕事関連で、

 

感情労働

 

について、少しだけ触れていこうと思います。

 

それでは早速始めましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

皆さんは、「承認」されたいですか?

 

アドラー心理学が流行する起爆剤となった『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』

によれば、

「承認欲求なんて捨ててしまえ!」(実際はもっとましな言い方です笑)

といわれていますが、実際はそうはいきませんし、あって然るべきだとも思います。

萎えることもあればモチベーションになることも多いですからね。

 

そんな「承認」に関して、

”承認論”を論じたアクセル・ホネットという哲学者がいます。

 

彼は承認を

  • 愛の承認
  • 法の承認
  • 連帯の承認

の3つに分けました。(詳細はあまり知らないので割愛)

簡単に言えば、愛の承認は個人から、法は規則、連帯は組織から得られるものとしています。

しかし、現代において、3つ目の連帯の承認がえられにくくなっていると考えられています。

その原因として2つ挙げられており、

  • 1つ目は 仕事環境の変化
  • 2つ目は 仕事内容の変化

であると言われています。

 

仕事環境の変化について

ホネットが承認論を論じた時代と、それ以降から現代までの時代は、

フォーディズム時代 と ポストフォーディズム時代

に分けることができます。

フォーディズムとは、

簡単に言うと、大量生産大量消費のマニュアル主義で、年功序列による仕事の評価という性質があります。

一方

ポストフォーディズムとは、

柔軟性重視でお客様第一主義、評価基準も能力別、といった時代で、まさに現代って感じですね。

前者と後者の間の一番の違いといえば、

前者は業務も商品も評価もひとまとめにされている集団的労使関係に基づくものであるのに対し、

後者は業務も商品も評価も個人に焦点が当てられていて、例えば「お客様一人ひとりに」といったようなマインドが代表的ですね。

 

それに加えて、ポストフォーディズム時代に誕生し、注目されたのが感情労働なのですが、これについてはあとで説明します。

 

このように、客側も企業側も全体的かつ包括的に扱われていたものが、個々人に目を向けられるようになり、集団としての凝集性や意識が減少していったことが連帯の承認の減少につながっていったと考えられています。

 

仕事内容の変化について

感情社会学という社会学の新たな学問分野を切り開いたとして有名なアーリー・ホックシールドという社会学者がいます。

彼女は、労働を

の3つに分類しました。

今回扱うのは3つ目の感情労働についてです。

上で述べたように、ポストフォーディズム時代の到来によって新たに誕生した感情労働なのですが、これが3つのうちの他の2つと比べて業務自体になじみやすく、評価することが非常に困難な労働なんです。

さらに、「営業スマイル」を振りまくことが当然のように日常に浸透しているので、どの労働にとっても当たり前のようになってしまっているのが現状です。

この感情労働が評価されないことによって、評価という承認が得られない原因となっていると考えられているのです。

 

 

 

といった感じで今日はここまで。

皆さんの仲にもお仕事で感情労働されてる方、非常に多いと思います。

学生の間でもこの感情労働や承認のカテゴリーは結構人気です。

 

もっと気になる方はぜひ自分で調べてみてください。

 

 

 

 

 

<あとがき>

感情労働と承認(心理系)とメディアは3大 人気テーマだと思う。

受験生もこういうの勉強したいっていう人多いと思う。

 

でも、先に言っとく。

 

心理は理系で、根性がないとできないもんだと思っといたほうがいい。

「聴くディストピア」と呼ばれた曲

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(すごく)寒いです

どうも。

いま外に出かけています。

昼間の暑さとは打って変わってすっごい寒いです。

 

昨日はボリューム満点だったので今日は休憩します。

 

 

 

昨日コーヒーを淹れるだけの動画を投稿したのですが、動画に合う良いBGMはないかとYouTubeで検索したんです。

          

[ コーヒーの歌 ]検索 ポチッ (超・愚直)

 

子どもの歌的なのでも、ネタに走ればいいかぐらいに思っていたのですが、数ある動画の中に、ひときわ僕の目を惹きつける動画がありました。

 

僕はそこで、『コーヒー・ルンバ』という曲に出会いました。

 

この曲は実際に動画でも使用しています。(著作権の問題は大丈夫そうでした。)

 

 

この話はTwitterでもちょろっと言ったのですが、どうも僕は昔の曲(~80,90年代)に惹かれるようで、今回も例に倣って聞き始め、今日一日何度もリピートしています。

 

母もよく言っているのですが、昔の曲って名曲多いですよね。邦楽洋楽問わず。

僕はワンダイレクションやテイラー・スウィフトよりビートルズマイケル・ジャクソンの方が耳なじみがいいです。

まあ、レジェンドと比較すること自体おかしいなどと思われる方も多いかと思いますが、それは現代にレジェンド(並みの方)がいない証拠でもありますよね。

 

僕は音楽について素人ですし、決して現代音楽を否定しているわけではありません。

個人的に、

昔がすごすぎたんじゃないか説の話をしています。

 

ともあれ、『コーヒー・ルンバ』という曲との出会いでいろいろと思うことがあったので、今回はその話をした次第です。

 

今回の話はこれにて終了ではあるのですが、曲の話のついでに、

今ハマっているある人物についても少しだけ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   平沢進さん ってご存じでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一部界隈では師匠とあがめられている方で、

他に類を見ない独特な曲をいくつも世に送り出しています。

 

現在は、

 

『世界タービン』

『金星』

『論理空軍』

 

の3曲を永遠にループしています(名曲です)。

 

平沢さんを知ったのは去年の春で、YouTubeのおすすめに『パプリカ』というアニメ映画の一部映像とともに平沢さんの『パレード』が流れている動画があって、

しかも一度ではなくいつまでもおすすめに出てくるので、夜寝る前に見てみたんです。

 

 

無意識に3回再生しました。

 

 

 

なんか、見てはいけないものを見た気がして、でもどうしても気になって、気が付いたら3回目の再生が終わろうとしていました。

 

いろんな意味で衝撃的でした。

 

その当時は『パプリカ』も平沢さんも存じ上げなかったので

 

 

100% 謎

 

 

みたいな状態でした。

「聴く麻薬」「聴くディストピアなどと呼ばれる所以だと思います。

 

 

とりあえず興味のある方はこちらからどうぞ。

僕が見た『パレード』の動画になります。

youtu.be

語弊がないように言っておきますが、平沢さんの曲がすべてやべぇ曲なんてことはありません。

さっき挙げた『金星』や、『パプリカ』の主題歌となった『白虎野の娘』など、

落ち着く美しい曲もたくさんあります。

(美術館に火をつける曲もありますが…笑)

 

ですので、食わず嫌いせず一度見ていただくことをお勧めします。

世界が広がりますよ。

 

 

 

 

といった感じで今日はここまでです。

 

髭男とかもいいですけど、たまにはこういったちょっと違う意味の

「刺激的な世界」にも足を運んでみてはいかがでしょうか。

 

 

それではさようなら。

 

 

<あとがき>

あーさむいさむいさむい。手がやべぇ。

 

さむい。

 

むむ、なにやら遠くで音楽が聞こえるから今から行ってみよう。

そしてすぐに帰ろう。

 

さむい。

 

 

あ、鳴りやんだ。

 

帰ろ。

幽霊が出るところ

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分別大事

 

どうも。

 

 

皆さんはちゃんとごみの分別してますか?

 

僕は、街中にあるごみ箱の捨てる口がペットボトルや燃やせるゴミで分かれているけど中でつながっている、ということを知っていても尚、ちゃんと分けています。

 

分けれる自分素晴らしい精神です。

 

また、地域によって家庭ごみの分別の難易度結構違うみたいですね。

僕が住んでいるところはたぶん全然分けない方の地域だと思います。

なんでも、市がお金持ちなんだとか…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、今日のお話は文化人類学より「分類」についてのお話です。

 

ちなみにもうゴミの話はしません。

ゴミの話を期待していた方には申し訳ないです。

 

 

 

 

「分類」といわれてパッと

 

「あ、あれね」

 

ってなる人はたぶんいないと思います。

 

それぐらい使われるシーンが幅広い言葉なのですが、

今回は話を進めていくうえでは、

 

”モノとモノとの間に秩序を発見し、分ける作業” 

 

と定義しておきます。

 

(分かっているとは思いますが、この場合の「モノ」は必ずしも物体である必要はありません。)

 

 

それではまいりましょう。

 

 

 

 

 

 

 

そもそも「分類」とは上の定義に沿って言えば、

 

”恣意的で人為的で社会的なもの”

 

であると言えます。

 

それはつまり、「分類」という行為が人間的な行いであることを指します。

 

 

 

人間の脳は常に秩序を求め、共通点を見つけ出してはグループ化して認識・記憶していきます。

これは、いわゆる差別偏見を生み出すメカニズムであると言えます。

 

こう聞くと、

「では、この世から差別や偏見はなくならないじゃないか!」

 

と思う方も多いと思います。

 

その通りです。 なくなることは無いといっていいでしょう。

 

逆に考えてみてください。

 

出会うすべての人々を、個別に一人ひとり記憶していくことができるかどうか。

 

人だけではありません。

このメカニズムがなければ、動物やものなども、すべて個別の単体として記憶していくことになるのです。

 

 

 

人間の脳の容量は無制限といわれているので理論上可能なのですが、消費するカロリーが多すぎるので、野生で生存するには負担が多すぎるのです。

 

我々が日常生活するだけでも、脳の活動だけ

約20~25%のカロリーが消費されていると言われています。

 

 

と、このように、分類するという行為は、人がヒトとして生存していくうえで生まれながら備わった能力であるということです。

 

 

 

では、ここで一つ気になることが出てきます。

 

 

 

 

”一般的、社会的に「分類できないもの」が現れた時、

ヒトはどうするのだろう”

 

続きを読む

アルバイトを変えるのは悪???

どうも。

 

 

ようやく海外旅行の日程が決まりました。

 

3月のあたまにタイプーケットに行きます。

 

タイの首都はみなさんご存知バンコクですが、バンコク正式名称はご存知でしょうか?

 

一時期TikTokで話題になったのでユーザーの方々は知っている方も多いかと思いますが、

 

めちゃめちゃ長いんですよね、あれ。笑

 

中学生の時にそれを知って、当時部活の練習メニューの階段ダッシュ脳死で終わらせるために、階段ダッシュしながら覚える練習をして集中を逸らすのに使った記憶があります。

 

お陰さまで大学生になった今でもちゃんと覚えてます。笑

 

 

以下Wikipediaより引用

 

กรุงเทพมหานคร อมรรัตนโกสินทร์ มหินทรายุธยา มหาดิลกภพ นพรัตนราชธานีบูรีรมย์ อุดมราชนิเวศน์มหาสถาน อมรพิมานอวตารสถิต สักกะทัตติยวิษณุกรรมประสิทธิ์


クルンテープ・マハーナコーン・アモーンラッタナコーシン・マヒンタラーユッタヤー・マハーディロック・ポップ・ノッパラット・ラーチャタニーブリーロム・ウドムラーチャニウェートマハーサターン・アモーンピマーン・アワターンサティット・サッカタッティヤウィサヌカムプラシット


Krungthepmahanakhon Amonrattanakosin Mahintharayutthaya Mahadilokphop Noppharatratchathaniburirom Udomratchaniwetmahasathan Amonphimanawatansathit Sakkathattiyawitsanukamprasit 



やっべぇですね。

 

 

 

 

 

因みに日本語に訳すとこうなるそうです。

 

 

“イン神(インドラ、帝釈天)がウィッサヌカム神(ヴィシュヴァカルマン神)に命じてお作りになった、神が権化としてお住みになる、多くの大宮殿を持ち、九宝のように楽しい王の都、最高・偉大な地、イン神の戦争のない平和な、イン神の不滅の宝石のような、偉大な天使の都。”

 

 

 

やっべぇですね。

 

 

 

 

 

現地の方々も全部覚えていない方もいるみたいで、現地では省略してクルンテープと呼んでいるそうです。

 

世界大戦時代、イギリス・フランスに挟まれた緩衝地帯だったという背景も含めると、本気で理想郷をつくりたかったんでしょうね…

 

 

 

 

 

前置きが長くなりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

突然ですが1つ質問します。

 

 

 

 

 

 

 

 

みなさんは、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ひとつのことを長く続ける事

 

 

短期間でいろいろやる事

 

 

 

 

 

どちらが価値があると思いますか?

 

 

 

 

 

 

 

これは習い事や部活、1番イメージしやすいのは、

アルバイトなんかがよく当てはまるんじゃないかなと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

僕は、どちらにもそれぞれ相互排他的な価値があると思います。

 

 

「質問しておいてお前はそれかよ」

 

 

その通りです、すみません。

 

しかし世論的には、ひとつのことをやり続けることの方が

コロコロ変えるより良いみたいな風潮

ありませんか?

(この場合の世論とは、一般的にって意味です。)

 

 

僕は

 

そんなこと断じてない

 

 

 

と思います。

 

 

アルバイトは特にそうです。

 

確かに、長く続けることで見える景色や役割は少しずつ変化していき、それはそれで良い経験になると思います。

しかしそれが、様々な業種を経験することに勝ると考えるのは、ある種美学の押し付けだと僕は思います。

 

 

 

 

 

まあ、これに限らず世の中にはいろんな議論がありますが、自分に合った考え方をひとつ持っておくだけで少しは楽になると思います。

 

間違ってはいけないのは、それが絶対なのは自分にとってのみであることです。

 

 

今日はこの辺で終わりにします。