男が奢るって決めたやつ呼んで来い
どうも。
日本人って、芸能人のスキャンダル大好きですよね。
日本人というよりはメディアなんですけど。
まあ飛ぶように売れるからメディアが取り上げて、結局はみんな大好きってことになるんですけども。
皆さんはどうですか?
僕は個人的には全く興味がなく(読んでくださってる皆さんの大半がそうだと思いますが)、むしろそっとしといてやれって思います。
結婚率の低下や熟年離婚など、最近家族や恋愛に関してあまり良いニュースを聞かないですね。
こんなんだからみんな嫌になっちゃうんですよね…
でも、現代のコミュニケーション能力や察することが求められる社会において、互いに理解し合い、良い関係を長期的に継続することって、改めて考えるとめちゃめちゃ難しいですよね。
(若者のコミュニケーション能力についてはこちらで少し話してます。)
というわけで今回は、
結婚・恋愛とメディア
に関して、少しお話しようと思います。
と言っても、今回のメディアとは媒体という意味で、マスメディアとは異なりますので誤解の無いようお願いします。
それではいきましょう。
まず、我々が普段行っているコミュニケーションというものが、
ものすごく繊細で、
不安定で、
不確実で、
非常に高度な作業であることを皆さんに知ってもらいます。
皆さんは、相手のことをまるっきり理解できていると思いますか?
冷静に考えれば、答えはNOのはずです。
しかし、こうやって立ち止まって考えて初めて、それを自覚するということもまた事実です。
なぜなら、日々のそれとない会話の中で、「今の彼の興奮具合はこれぐらいだと思うけど、これは私の主観で決めていることで実際はそうとも限らないから…」みたいなことをいちいち考えないですよね。
大体の感情の動きや意図は、それまでの会話や自分の知っている範囲での相手の情報と照らし合わせて予測します。
この作業を互いに行い、不確定性を無視することで円滑にコミュニケーションを進めていきます。
これを
ダブル・コンティンジェンシー(二重の偶然)
と呼びます。
要は、互いに完全に理解しないまま進行している状態です。
この状態を解消するための道具として用いられるのが、メディア(媒体)
になります。
これだけの説明だとよくわからないと思います。
僕も「これは、どうしよう。」と思いながら書いています。笑
例えば。
経済の話をするためにはお金がメディアになります。
お金という共通の概念がなければ、経済について話をすることができません。
法廷では、法律というメディアが必要になります。
法律という共通のルールがなければ、人を裁くことはできません。
宗教においてはどうでしょう。
無論、宗教では神や経典が共通認識のメディアとなります。
どうでしょう。
少しイメージしやすくなったでしょうか。
このように、共通のルール・規範・概念が存在することで、二者間のコミュニケーションに一貫性が生まれます。
その場での、とりあえずの正義、正解のような感じです。
もちろん、二者間でメディアそのものに対する認識の違いがあることもありますが、同じ文化や社会集団であればあるほど、差異は小さくなります。
逆に言えば、カルチャーショックなんかはこの辺からでも説明できますね。
それはさておき、
簡単に言えば、コミュニケーションにおいて、
二人の間に一つ軸を置いてあげれば、互いの理解の助けになる、ということです。
では、それが結婚・恋愛にどう関係があるのか。
察しの良い方、その通りです。
ここまでの話の流れでいくと、
恋愛とは、結婚について話すためのメディアである
ということがいえます。
そしてこの認識が当たり前になったのは、つい最近の話なのです。
一昔前(封建時代)までは、結婚のメディアは身分でした。
同じ身分の人と結婚するのが当たり前で、身分を越える結婚はご法度でした。
しかし現代ではご存じの通り、
結婚といえば恋愛結婚が専ら主流になっています。
では、コミュニケーションのメディアとしての恋愛が、二者間の理解をどのように助けるのかについて、なのですが、
例えば、
”もし恋愛が存在しなかったら” と仮定して考えてみて下さい。
恋愛というメディア抜きに結婚について男女で話を進めることができるでしょうか。
たぶん、少なくとも現代社会においては、できないです。
詳しく説明すると、
互いに好意を持っているという状態である=恋愛
という共通認識があるおかげで、それを踏まえた話ができるわけです。
さらに、あらゆるメディア(この場合は本やドラマや、恋愛についての情報の媒体)を通して、理想の恋愛とはどのようなものかを共有し洗練することで、「どうすればいいかわからない」という状態から、「こうすればきっと喜んでもらえる」という展望も見えるようになります。
良くあるじゃないですか。
「ふつー男が奢るもんじゃん」とか「おそろいのネックレス嬉しい!」みたいな。
これらは「恋愛」という、いわばルールというか、理想というか、メディアによるものだということができるんです。
そして最終的に、この恋愛というメディアを通して何度も何度も塗り重ねられたコミュニケーションのゴールでありスタートであるのが結婚となるわけです。
よく、「何十億いる中で君に出会えた軌跡」みたいな歌詞ありますよね。
あれは、偶然(選択可能性)から必然(唯一無二性)への転換を急いでるんです。
上で述べたように、何度も塗り重ねるという工程によってはじめて、互いのことが特別な存在へと昇華します。
つまり、出会った時点では運命ではなく偶然です。
出会う時点では誰でもいいんです。
これは恋愛に限ったことではなくすべてに通じることですが、
人でもモノでも、出会ってからが本番で、塗り重ねに失敗したり、急いでしまうと、破綻することになります。
皆さんは家族を選んで生まれてきたわけじゃないのに、家族はほかの一般人とは違う特別な存在でしょう。
好きとか嫌いとかは別として。
といった感じで今回はこれで終了とします。
今回は恋愛についてコミュニケーションのメディアとして紹介しましたが、
またの機会に、
”一つのコミュニケーションとしての恋愛”
についても話そうと思っています。
恋愛自体がコミュニケーションの目的になっている、みたいな話です。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
また次回。
それではさようなら。
<あとがき>
正直、恋愛を社会学やその他学問で論じようとしても無駄だと思う。
この場合の無駄とは、研究自体を否定してるんじゃなくて、実生活にあまり使えないという意味で無駄だということ。
話自体は面白いと思うけど、そんな簡単なもんじゃないよねぇ。
(ついに3000字超えました。)