幽霊が出るところ
どうも。
皆さんはちゃんとごみの分別してますか?
僕は、街中にあるごみ箱の捨てる口がペットボトルや燃やせるゴミで分かれているけど中でつながっている、ということを知っていても尚、ちゃんと分けています。
分けれる自分素晴らしい精神です。
また、地域によって家庭ごみの分別の難易度結構違うみたいですね。
僕が住んでいるところはたぶん全然分けない方の地域だと思います。
なんでも、市がお金持ちなんだとか…
さて、今日のお話は文化人類学より「分類」についてのお話です。
ちなみにもうゴミの話はしません。
ゴミの話を期待していた方には申し訳ないです。
「分類」といわれてパッと
「あ、あれね」
ってなる人はたぶんいないと思います。
それぐらい使われるシーンが幅広い言葉なのですが、
今回は話を進めていくうえでは、
”モノとモノとの間に秩序を発見し、分ける作業”
と定義しておきます。
(分かっているとは思いますが、この場合の「モノ」は必ずしも物体である必要はありません。)
それではまいりましょう。
そもそも「分類」とは上の定義に沿って言えば、
”恣意的で人為的で社会的なもの”
であると言えます。
それはつまり、「分類」という行為が人間的な行いであることを指します。
人間の脳は常に秩序を求め、共通点を見つけ出してはグループ化して認識・記憶していきます。
これは、いわゆる差別や偏見を生み出すメカニズムであると言えます。
こう聞くと、
「では、この世から差別や偏見はなくならないじゃないか!」
と思う方も多いと思います。
その通りです。 なくなることは無いといっていいでしょう。
逆に考えてみてください。
出会うすべての人々を、個別に一人ひとり記憶していくことができるかどうか。
人だけではありません。
このメカニズムがなければ、動物やものなども、すべて個別の単体として記憶していくことになるのです。
人間の脳の容量は無制限といわれているので理論上可能なのですが、消費するカロリーが多すぎるので、野生で生存するには負担が多すぎるのです。
我々が日常生活するだけでも、脳の活動だけで
約20~25%のカロリーが消費されていると言われています。
と、このように、分類するという行為は、人がヒトとして生存していくうえで生まれながら備わった能力であるということです。
では、ここで一つ気になることが出てきます。
”一般的、社会的に「分類できないもの」が現れた時、
ヒトはどうするのだろう”
いよいよ今回の本題に入ります。
初めに結論から言うと、
分類できないものの出現に対して人間がとる行動は 2つ あります。
1つ目は 差別(忌み嫌う)
2つ目は 神秘化 です。
まず、「分類できないもの」についてもう少し詳しく説明します。
AとB両方の性質を持ち合わせ、二分できない領域のことを
リミナル と呼びます。
このリミナルの領域にあるものを、ある時は忌み嫌い、ある時は神秘的なものとして扱います。
分かりやすい例は 人魚 です。
上の図を使って説明すると、
A=人間、B=魚 としたとき、人魚がリミナルにあたります。
次に、
人が人魚に対する反応(行動)について、
少し振り返ってみましょう。
ディズニーなどの作品において人魚姫は美しく尊い存在として描かれています。
アリエル美人です。
一方、人魚には”船乗りを歌で誘い、喰らう”という話もあります。
人魚のみならず、日本にも「件」という、文字通り人と牛が混ざった姿をした妖怪がいます。
その妖怪も、出現すると災いを予言し、その予言は必ず的中すると言われており、恐れられています。
このほかにも、探せばこういった生物が混ざったような妖怪・化け物・神様がいっぱい出てきそうですね。
これらのことから、
”神秘的な扱い”と”忌み嫌うような扱い”は紙一重である
ということが分かります。
これは、一見正反対のような扱い方ですが、双方には共通点があるからです。
それは、リミナルにある対象から、
意識的、物理的に ”距離をとる”
ということです。
よくわからないものは怖いですからね。
さらに、このリミナルの考え方は土地などの場所にもあてはまります。
試しに、
怪談話で頻繁に”幽霊が出る”といわれる場所をイメージしてみてください。
イメージできましたか?
一般的によく言われるのは
トンネル
橋
海辺
エレベーター
廊下
などなど…たくさんありますよね。
察しの良い方はもうお気づきになったかもしれません。
そうです。
これらはすべて、
”ある場所からある場所への中継地点”
にあたるのです。
どちらともいえないものに対して、違和感のような、恐怖心のようなものを感じるのは物に限らず場所にも言えるということです。
さらにトンネルや道の分岐点などにはよく地蔵がありますが、これもリミナルの意識からうまれた風習と考えていいでしょう。
このように、人はあらゆるものを”分類”します。
それは非常に本能的で人為的で社会的な営みです。
ですが、初めの方に、”差別や偏見を無くすことはできない”といいましたが、それについて訂正として少し付け加えます。
確かに、分類するという行為は、生まれ持った情報の保存方法であり、避けられません。
しかし、分類したものに対して抱く感情(問題視されるのはたいてい負のもの)を制御する理性を持ち合わせて初めて理性的な、社会的な人間ではないでしょうか。
人間的な営みを制御してこそ人間である、と僕は考えます。
まして、これからの我々は、
肌の色でも、人種でもない新たなリミナルな人間と対峙することになります。
それらはもはや、人間と呼ぶにも違和感を覚えるほどになるかもしれません。
その対象こそ、人間と機械の融合により誕生する
トランスヒューマニズムです。
また、地球外生命体との混血であるヒューメイリアンもまた、彼らと同じく我々の目の前に現れることになるでしょう。
もしかしたら、もうすでに出会っているかもしれません。
日々の生活でたまにいる、”なんか嫌いなあいつ” はもしかしたら、
本能で分類できない存在だと感じ取っているのかもしれません。
信じるか信じないかは…
おわりに
さて、今回は、文化人類学の視点から”分類”について考えてみましたが、いかがだったでしょうか。
日常のあらゆる物事がつながってくるものなので、非常に興味深い話題だったかと思います。
これには”儀礼(通過儀礼)”についてもつながっていくのですが、それはまたの機会にしましょう。
お葬式や七五三の話が出てくるので、これまた面白いと思います。
それでは、
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。
また明日もお付き合いください。
最後のやつは書き始めた時に思いついてしまいました。
楽しかったです。
<あとがき>
僕の学びはこうやって日常生活に当てはめて考えられるからめちゃめちゃわかりやすくて楽しいから勉強しやすいけど、経済とか法とかよくやるなぁって思う。
法学部に入らなくてマジでよかった。
ありゃ墓場だ。(すまん言い過ぎてる)