eve-イヴ-のアタマの中

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才能にころされる

どうも。

 

 

 

今日ははじめに、皆さんに謝罪(?)みたいなのがあります。

 

このブログを始めて2週間が経ちました。

 

しかし(なので、といった方が正確かもしれない)、このブログの使い方がまだちゃんとわかっておらず、至らぬ点が多いことは皆さんにも伝わっているかと思います。

 

 

 

このことが最近目立ってきまして、というのも、近ごろ喜ばしいことに読んでくださる方が増え、ブログにコメントやブックマーク(?)をして下さる方もちらほらいて下さるんですね。

 

 

 

そして今僕が直面している問題が

 

ブックマークってなんですか? 

コメントには返信できるんですか?

 

という問題です。

どうか、知ってらっしゃる方、教えていただけると非常にありがたいです。

 

 

 

あと、ついでというかたちにはなってしまいますがこの場を借りて、

misojinokinpathiseikathu1様、momiji_diary様(アルファベット順)に謝罪とお礼を申し上げたいと思います。

 

いつも読んでくださりありがとうございます!

ブックマークのコメントにすぐに反応することができず申し訳ありませんでした。

僕には星を連打することしかできませんでした…笑

これからもよろしくお願いします!!

 

 

 

 

いつも読んでくださっている方々も、本当に感謝しています。

 

これからも頑張りますね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それでは今日の本題に入ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日の話は、才能とか努力とかの話をしようかなと思います。

 

 

 

 

 

 

僕には、才能という言葉には縁がありません。

いや、苦しめられたという点ではものすごく因縁があるのかもしれない。

 

 

 

僕は、

 

勉強

部活(運動)も

仕事

 

これっぽっちも才能が有りません。

 

 

なので、様々な分野において才能がある人たちがものすごくうらやましかったです。

 

なぜ過去形なのかというと、今ではそうは思わなくなったからです。

 

 

理由は2つ 

 

 

少しずつ簡潔に説明していきます。

 

 

 

 

1.才能は努力を否定する

高校時代、勉強はできるかどうかに限らず嫌いではなかったうえ、3年間も塾に通わせてもらっていたこともあって、3年になる頃だと校内では真ん中より上の方でした。

 

 

 

テストや成績が返却されると始まる恒例の見せ合いタイム。

 

周囲の人は僕の点数を見ると

 

「えーな―、ちょっとやったらできて」的なことをよく言いました。

 

受験期も、センターをどれぐらいとれるかみたいな話になっても、僕はその場を立ち去るようなこともありました。

「お前はどーせいい点取れるんやろ」

って顔が、話の初めに半数から向けられていた(気がした)からです。

 

僕も、この大問苦手やわ、とか、2014年の英語むずくなかった?とか話したかったです。

 

 

 

僕は、勉強の才能は有りません。

 

小学校の頃も、三段階(△ 〇 ◎)の評価で、25個ぐらいある項目の中から◎が5個でもあれば歓喜するほどでした。

 

中学に入ってからは、父親に怒られないためにテスト期間泣きながら勉強していた記憶もあります。

 

高校、特に高2の冬以降なんかは、親が離婚の危機になり、何としても父親に大学の学費を払わせるために、「僕はあんたより上の大学に行ける学力がある」と証明するべく模試で判定を上げ続けるために必死でした。

 

(僕の家庭は少し荒れていたので、想像しながら読んでいただけると助かります)

 

 

そんななか、

 

「才能があっていいな」

 

という言葉が、どれだけ人の努力を否定するのに適切な言葉かわかりません。

 

もっとも、当時も今もそういう風なことを言われても笑ってごまかしますが、

 

「よくもそんな事を…!!」(グレタ風味)

 

って思います。

 

 

 

結果というのは現在にしか見えません。

その結果が生まれた努力の過程を垣間見るには、想像力が必要になります。

 

 

 

そしてこの想像力の主成分は 思いやり だと、僕は思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2.才能は多様性を無くす

一つだけ、とびっきり秀でた才能があったら、皆さんはどうするでしょう。

 

僕は、才能を努力で勝てない領域のことだと定義していますが、各界のスターたち、オリンピック選手などは才能の持ち主であると言えます。

 

彼らはそれぞれの分野で特化し、それで食べていける方も多いと勝手に思っていますが、そこまでは至らない、いわゆる「体育の授業で活躍できるレベル」の才能を持った人たちはどうでしょう。

 

僕の友達にもいろいろいますが、中途半端に才能を持ったばかりに、それしかしない、できない、という人も、僕の人生には何人かいました。

 

彼ら彼女らを見ていて、その都度こう思いました。

 

「なんにも才能無くてよかった」(アホ面を添えて)

 

 

なんか、才能のせいで苦しんでいるようにしか見えなかったんです。

 

 

好きでやっていての苦悩と、とりあえず続けていての苦悩では、同じ悩んでいる姿を見ても一目瞭然です。

 

 

その点僕はなんにも才能がないし、逆にある程度頑張ればある程度のレベルまでは行けるということも勉強を通じて知っているので、いろいろと手を出してはやめるみたいなことも平気でします。

 

 

才能があるからやらなきゃいけない、という周りの雰囲気に殺されることが一番の問題だと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

と、こんな感じで、才能っていう言葉についての僕の考えを話しました。

 

皆さんも、

 

一度身の回りの人などを思い浮かべてみてください

 

その人の見方が変わるかもしれませんよ。

 

 

 

 

 

 

それではさようなら。

 

 

 

 

 

 

 

<あとがき>

今度は部活についてでも話そうかな。

中学、高校とバレーボールをやってたので、そんときの話でも。